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ペリー来航について解説!

ペリー来航 出典:Wikipedia

江戸幕府ができた際に3代将軍 徳川家光により日本は一定の国としか貿易をしない鎖国政策を当時は行っていた。この鎖国政策の影響で日本独自の文化が栄えるきっかけにもなったが諸外国の情勢が全く分かりませんでした。

そして江戸時代も幕末と呼ばれる時代に差し掛かる時に四隻の蒸気船が日本に来航しそれはペリー率いるアメリカ艦隊の船でした。

ペリーは1853年に神奈川県の横須賀の浦賀に到着。鎖国中だった日本においては一大事です。

当時の江戸幕府12代将軍 徳川家慶と13代将軍 徳川家定の時に来航しました。この時の老中は阿部正弘で徳川家慶に代わり大活躍する訳です。

第12第将軍 徳川家慶 出典:Wikipedia

第13第将軍 徳川家定 出典:Wikipedia

老中 阿部正弘 出典:Wikipedia

ペリー率いるアメリカでは産業革命により働き方が大きく変化し夜中も工場が稼働するようになりました。当時,工場で使用する油にはクジラの油が使用されておりアメリカは世界中や日本の海でクジラを捕獲しています。伊豆諸島や小笠原諸島がたくさん収穫できる場所として知られクジラを捕獲していたが物資の補給拠点が太平洋にはなく航海をする度にアメリカに戻って物資を補給していた。

なので太平洋での補給地点を構築するべくペリーは日本に対して開国を求め最終的には当時のアメリカ大統領の親書 フィルモアの親書を徳川家慶に渡す事でした。

幕府は身分が低いものしか送らないのでそれを見かねたぺリーが将軍,直々に親書を渡すと脅しをかけたが当時の家慶は病気により国の一大事を決める状態ではなかった為に老中の阿部正弘が家慶の代わりにペリーの上陸を許した。

家慶が病気の為に開国に関しては1年程の猶予が欲しいと言い再び1年後に合う事を約束した。

ペリーが去った後に家慶が病気で亡くなりその後に徳川家定が将軍となるが元来,体が弱く政治を任せる事が出来なかった。

結局幕府ではいい案が出ず、老中の阿部正弘は幕政に関わることのない大名や庶民にも意見を求めるようになりました。これは幕府が出来て初めてのことでした。

しかし、このことを行ったことにより国政に関わることが一切なかった大名が発言権を持つようになり、結果的に幕府の権威を下げてしまいました。

阿部正弘はもしもの時に備えてアメリカと戦闘できるように江戸湾に砲撃用の台建設を命じました。

それが今のお台場となっています。

海上公園なび

海上公園なび

1854年にペリーが来航したが約束では1年後だったが実際には半年後に再来航した。これは将軍家慶がなくなり国政の不安をついた政策でした。

ペリーが来航して1か月もの間,開国に関して協議が繰り広げられ外国との交渉に向いている林復斎を中心に協議をした。

そこで3代将軍 徳川家光から続いた鎖国政策が終了し日米和親条約と同年に下田条約が結ばれた。

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