歴史解説

源頼朝と北条氏の関係

北条政子は、もともとは伊豆の流人であり、その後、鎌倉幕府を創立した源頼朝と周囲の反対を押し切って結婚。源頼朝の妻である北条政子は、のちの2代将軍「源頼家」や3代将軍「源実朝」など、二男二女を産んでいます。
そして夫・源頼朝の没後、出家して「尼御台」(あまみだい)と呼ばれるようになった北条政子は、幕政の実権を握って「尼将軍」と称されるようになったのです。
「北条義時」(ほうじょうよしとき)の姉でもあった尼将軍・北条政子が、鎌倉幕府でどのような役割を果たしたのかについて、その生涯を紐解きながら見ていきます。

北条政子は伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の有力豪族「北条時政」(ほうじょうときまさ)の長女として生まれました。

のちに夫となる源頼朝との出会いは、「源氏」と「平氏」が対立した「平治の乱」で敗れた源頼朝が、伊豆へ配流されてきたことがきっかけ。

その当時、同国の在庁官人を務めていた父・北条時政が、源頼朝の監視役に任じられていたのです。このとき源頼朝はわずか14歳の少年、そして北条政子は4歳の幼子でした。出会った当初はまだ子どもだった2人。

しかし源頼朝が約20年間、流刑の身のまま「蛭ヶ小島」(ひるがこじま:静岡県伊豆の国市)で過ごしていたことにより、次第に恋仲へと発展していきます。

源頼朝との関係が周りに知られるようになったのは、1177年(安元3年/治承元年)頃。結婚を望んでいた2人でしたが、「北条氏」が平氏の流れを汲んでいたため、敵対する源頼朝との結婚は、周囲から猛反対されたのです。

「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)によれば、父・北条時政は2人の結婚を阻止しようと、平氏一族出身の「山木兼隆」(やまきかねたか)と北条政子を婚約させたと伝えられています。しかし北条政子は、山木邸を抜け出して源頼朝のもとへと走り、駆け落ち同然で結婚。この逸話は、現代では同書における創作だとされていますが、それだけ北条政子が、自分の意志を貫く強い女性であったことの表れとも言えるのです。

最終的に源頼朝との結婚を父から認められた北条政子。愛する夫と添い遂げた生涯を通じて、二男二女の子どもを産んでいます。のちの鎌倉幕府2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)となる長男「万寿」(まんじゅ)は1182年(養和2年/寿永元年)、同じく3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)となる次男「千幡」(せんまん)は、源頼朝が朝廷より征夷大将軍に任命された1192年(建久3年)に生まれました。

1199年(建久10年/正治元年)に源頼朝が急死したことにより、源頼家が18歳の若さで2代将軍に就任。その3ヵ月後には、源頼家を補佐してその独裁を防ぐために、北条政子の弟・北条義時や父・北条時政、そして「比企能員」(ひきよしかず)など13人の有力御家人達により「13人の合議制」が発足。これにより源頼家は、訴訟を直接裁断することができなくなったのです。

源頼家には自身の乳母の夫・比企能員を重用したり、側室を比企一族から選んだりと、比企氏を何かと贔屓する傾向がありました。さらには、源頼家と比企能員の娘の間に長男「一幡」(いちまん)が誕生したことで、比企氏が権勢を振るうようになっていたのです。そんななか源頼家は、1203年(建仁3年)に急病で倒れ、一時危篤状態に陥ります。

これを機に、源頼家の後ろ盾になっていた比企氏が本格的に台頭することを恐れた北条政子と北条時政は、源頼家の弟・源実朝を3代将軍に擁立。病から快復し、このことを知った源頼家は比企能員に北条氏討伐を命じ、反乱を起こします。しかし結局は失敗に終わり、源頼家は実母である北条政子により「修善寺」(しゅぜんじ:静岡県伊豆市)に幽閉され、殺害されてしまったのです。

源頼家の没後、正式に源氏の家督を継いで鎌倉幕府3代将軍となった源実朝。その補佐役となる初代執権は、北条政子の父である北条時政が就任しました。このときの源実朝は、わずか12歳。そのため北条時政は補佐役の枠を超えて、同幕府における政治を取り仕切り、実質的な権力を独占していたのです。

さらに北条時政は、源実朝が将軍の座に就いていながらも、後妻である「牧の方」(まきのかた)と共に、長女の婿である鎌倉御家人「平賀朝雅」(ひらがともまさ)を次期将軍に擁立しようと画策。この北条時政と牧の方による企みに気付いた北条政子は、弟の北条義時と相談し、父・北条時政と牧の方を出家させて伊豆国へ追放したのです。このあと北条義時は父の跡を継ぎ、2代執権に就任しました。

このように、実の息子と父親という身内を相次いで処罰した北条政子は、非常に冷酷な女性だったと思われるかもしれません。しかしこれは鎌倉幕府を何とか存続させたいという想いがあったために北条政子が下した、冷静な判断の結果だったとも言えます。1219年(建保7年/承久元年)に「鶴岡八幡宮」(神奈川県鎌倉市)にて、将軍・源実朝が、源頼家の次男「公暁」(くぎょう/こうきょう)に暗殺される事件が勃発。

これにより源氏の嫡流が途絶えることとなりました。愛する息子である源実朝が突然亡くなり、深い悲しみに暮れた北条政子でしたが、実子のいなかった源実朝の跡を継ぎ、次期将軍となる人物を探すために奔走します。

そして最終的には、源氏と遠戚関係にあった「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)を京都より招き、鎌倉幕府4代将軍に据えたのです。とは言っても、当時の藤原頼経はまだ乳児であったため、北条政子がその後見となり、幕府の政治において、2代執権の弟・北条義時と共に実権を握ります。このときの北条政子はすでに出家して尼になっていたことから、「尼将軍」と呼ばれるようになったのです。

朝廷から政権を奪う形で始まった鎌倉幕府。そのため天皇家を含む朝廷側は、権力を奪回する機会を虎視眈々と狙っていました。鎌倉幕府の将軍家であった源氏はもともと、天皇家の流れを汲む家系。しかし、源実朝の暗殺事件により源氏の血筋が絶えてしまったことで、同氏と天皇家は何の関係もなくなったのです。

これを好機と捉えた82代天皇「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は1221年(承久3年)、鎌倉幕府に仕えていた御家人達に対して同幕府を討つように命じました。これにより、「承久の乱」(じょうきゅうのらん)が勃発します。

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