保元の乱とは1156年に後白河天皇と崇徳上皇との皇位継承争いのことを指しそこに源氏と平氏が関わる戦です。
崇徳上皇と後白河天皇は鳥羽上皇の息子であり兄弟関係です。この二人がなぜ争うことになったかというと鳥羽上皇の死後、兄・崇徳上皇が院政を敷いて政権を握ろうとしていたが弟・後白河天皇が即位した事で院政を敷く事ができなくなったからです。
院政とは天皇を後見する立場から政治の実権を握ることを指します。
崇徳上皇と後白河天皇の争いに源氏と平治が関わる戦が保元の乱です。
保元の乱に勝利した後白河天皇はわずか3年という短い在位のあと34年間の長い院政を敷いた天皇です。
後白河天皇は側近であった信西と平氏の平清盛を贔屓して褒美も少なかった為に藤原信頼が源義朝に近づき信西と平清盛を倒す為に起きた戦が1159年に起きた平治の乱です。
平治の乱で勝利をした平清盛は武士として初めて太政大臣に任命され政治の実権を握っていくことになる。
1177年から1185年にかけてに起こった源氏と平氏の戦をまとめて源平合戦といい最終的には山口県の下関で起きた壇ノ浦の戦いで源氏が平氏を滅亡させ源氏による政治が幕を開かれることになる。
平治の乱で平清盛に敗れ島流しにあった源頼朝は約20年を伊豆で過ごし源氏再興の挙兵を行いました。そして源平合戦に勝利し鎌倉幕府を開くことになる。